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2011年12月31日 (土)

今年 1年をふりかえって

今年ものこすところあとわずか。

じつは家のほうがたいへんなことになっていて、正直

来年の芸術祭はどうなることやら・・・?

と、いう感じなのですが。

とりあえず、まったく そっちにアンテナたてていないので、もうしばらく更新はお休みさせていただきます。

さてさて

今年は東日本大震災、妻有地域では豪雨による災害・・・十日町市としては記録にある限り最悪の被害となりました。また、海の向こうの国でも 水害でたいへんなことになってるようです。

戦争というものがない国に生まれて平和に暮らしていましたが、

自然の猛威の前では人間は無力でした。

「大地の芸術祭」の作品の中にも、自然のもつ ときに混沌とした姿をテーマにした作品もありますし、この地に伝わる伝承や史跡などからも、

昔の人々は自然を「神」として、人間に恩恵と災いをもたらす、人知の及ばぬ世界に存在する存在として崇拝してきたのだと思います。

いまでこそ、台風や異常気象などは予測できるし、地震や火山も予測できずとも原因はわかっており、それが神様のしわざだとは考えません。

しかし、科学が発達していなかった時代の人々はおおきな自然災害の原因というものを、

山や森、海や川に住む、神のしわざとして考え、人の手ではどうにもならないものだと考えたのでしょう。

今年の災害では、そういうことを考えさせられました。

文明を築いた人類は、人間の可能性は無限だと錯覚してしまっています。

しかし、人間は自然の猛威まえでは無力であり、自然を変えることなどできません。

なぜなら人間も自然、地球や宇宙といったものの一部であるからです。

ですからひとりの人間にできることはそれほどおおきくありません。

自然災害はもちろんですが、犯罪にしろ それが戦争レベルにまで大きくなったら、個人の力ではどうにもならない。防げないし、変えようがないのではないでしょうか?

本来、世界というものは人間に不幸しかあたえず、災害や戦争のようにひとりでは防ぐことはでないのです。

では、「世界を変えることができない」なら、どうすればいいのか?

それは「自分が変わる」しかありません。言い方を変えると、「自分の世界の見方を変える」考え方の視点や、物事を見る視点を変えることです。

いま自分のいる世界、あるいは環境を不幸だと考えず

プラスの部分をみつめること。そうすれば気づく幸せや、新しい世界もあります。

以前にも書きましたが

アートというものは、新しい視点から物事を見るための入り口です。

本を読んだり、映画を見て感動したあと、おなじ景色がいつもと違って見えた体験はないでしょか?。

すばらしいアートもまた、触れることでいままでと違った角度から

ものごとを見ることができます。

芸術祭ぶろぐらしいまとめ方になったところで・・・

このぶろぐも6年目。みなさん今年もきてくれてありがとうございました。

それでは、よいお年を。

2011年8月27日 (土)

障がい者の感覚世界について

本文に書こうと思っていましたが、脱線したので

ちょっと私自身の体験談を・・・。

以前は精神障害の人たちと何人か交流があったのですが、いまは発達障害とか身体障害の人たちと交流があります。

障害者はふつうとは違う感覚世界で生きている。・・・まぁ言葉で書くのはたやすいですが、なかなか理解はできないかも知れません。

むかしよりはそういう人たちが当たり前に暮らす社会になったとしても、やはり関わったことがないとよくわからないと思うかもしれません。

関わってみても、じっさいかれらのことはわからないものですが・・・

たとえば、

「わたしはリンゴは甘いから好きです。」

とAという人がいったとして、Bいう人が

「ぼくはリンゴは酸っぱいから嫌いです。」

といったとします。これは感じ方の違いですよね。人はだれでも食べ物の好き嫌いはありますから、このくらいの意見の違いなんて、日常の中ではよくあります。

ところがCという人は

「リンゴは食べ物ではありません。生き物です。」

という。これを聞いて、AさんとBさんは「Cさんはちょっと変なんじゃないか?」って思う。

障害者の感覚のちがいって、このくらいなんじゃないか。って思うのです。

だけど、ちょっと視点を変えてみてください。

「リンゴは植物ですから、生物である。」という見方もありますからCさんのいってることは真実であり、異常でもなんでもないのです。

AさんとBさんが、「リンゴは食べ物である」という前提で、会話をしていることにCさんが気付かなかっただけのことです。あるいはふつうの人たちが、「リンゴは食べ物だ」ということが「当たり前」の「常識」だと勝手に思い込んでいただけのことです。

しかし、世の中にはべつの感じ方をする人もたくさんいて、当たり前なんてものは

ごく限られた社会の中でつかわれている一部の考え方にしかすぎません。

障害者のみてる世界はその外の世界なのではないでしょうか?

なんとなく私は自分の体験からそう感じるのです。

自閉スペクトラムの障害なんかはまさに「リンゴは食べ物というのが一般的な考え」という社会あるいは会話のなかの「暗黙の了解」が理解しにくいという障害であるといえます。

もうひとつ、私のいま通ってる施設にいる目の見えない女性の話です。

若いけど、成人の女性ですが

最近その子のお兄さんに「彼女」ができたらしく、やたらその話をその子は口にするんですね。目が見えないってだけで、知能や精神に問題があるわけではいのだし、成人女性が

「お兄さんに恋人ができた」くらいのことで、いちいちそんなこと言いふらすものだろうか。

と思うかもしれません。

ところで、目が見えないから不自由だってことは、そりゃ誰でもわかることだろうけど

見えないこと以外にも、他とは違うことがある。ということもあるのです。

たとえば、私たちはふつう男女を見た目で判断します。

いや、中身もたいせつだけど。じゃなくて、初対面の人をまず見た目で男性か、女性か?

って見分けますよね。

目の見えない彼女には、それがありません。

もちろん言葉もわかるし、知能もふつうなので「世の中には男と女がいる」ことは知ってますし、その違いもわかる。お父さんとお母さんがいて、自分がることもわかっている。

ただそれを目で見える情報以外のことで認識しているわけです。

だから男と女をわかっていても、

彼女の中ではわたしたちとはまったく違うイメージがあって、認識も感じ方もちがって、もちろん恋愛とか、家族とか、お兄さんの彼女のことも、わたしたちとは違った感覚で考えているのです。

当たり前のこと言ってると思うかも知れませんが、

そもそも私たちや、社会という集団の中では「当たり前」とか「常識」と思っていることは、じつはそれほど普遍的なものではないのです。

リンゴは食べるものではなく生きているものだ。と感じる人もいるし

男女の違いが人生のうえでそれほど重要なことではないと考える人もいる。

人と関わることで世界とつながるのではなく、自分ひとりの世界で創作をつうじて世界とつながろうとする人もいるのです。

まったく違う感覚世界で生きる人たちの視点を知ることで、

ふつうの人たちも、自分の世界をもっと違う角度から見れるようになると思うし、人間の本質や、当たり前だと思っていることがじつはごく一部の考え方にしかすぎないことに気づくと思います。

障害者の感覚世界をしることはむづかしいですが、

芸術というものを通してならばそれが可能なのではないかと思います。

2011年8月26日 (金)

絵本と木の実美術館 ④

さて最後になりましたが、山崎健一さんの作品です。

2

新潟出身の作家さんで精神障害を抱えながら、コンパスで設計紙に穴をあけ定規などで直線や曲線をつかった絵をひたすらに描き続けています。

一見、図形か設計図のように見えるものもよくみると乗り物や幾何学模様に色分けされており、文字や数字がこまかく描きこまれています。

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別館でよく、絵の解説とかするときいうんですが

理数系の人は定規やコンパスなどをつかって、建造物などの絵を描く時も正確な直線や曲線、長さや高さなどを描写するのが得意ですね。

ぐりむさんなんか、こういうの苦手なので定規つかっても線が曲がってしまうのです。

障がい者の世界を知る、といってもかれらの作品にみられる

わかりやすくいうと「こだわり」というか、特定の色やかたち、行為に執着する意味を理解するのはむづかしいです。

また、規則性のようなものもありひたすらおなじ行為(おなじ形や線)を繰り返す。という特徴もあります。かれらは自分の創作を進化させることに関心がありません

しかし、そういったかれらの世界の法則性などは、彼ら自身だけの世界であり外部からは決してその意味を理解することはできません。

ただ、かれらのもつこだわりや規則性といったものが、かれらの心の中では生きていくために必要なものであるということは間違いありません。

自分がその色やかたち、あるいは行為によって生かされ、世界とつながっている。だからこそかれらはひたすらに創作に没頭するのではないでしょうか。

さて、最後に・・・

ある発達障害に関する本で(わりと最近)よんだ内容の受け売りなのですが。

障害をもつ人が芸術の分野などで天才的な才能を発揮したり、驚異的な記憶力をもつという「サヴァン症候群」はよく知られています。

また歴史上の天才や偉人といわれている人たちが、発達障害であった可能性についてもさいきんはよく研究され、いわれています。

ただ、だからといってかならずしも障害者はみな天才ではなく、そういった才能が生かせる人はまれであり、周囲から認められることも少ないのが現実です。

サヴァン症候群なんてめったにいるものではないし、

自閉症者の記憶力(長期記憶)はたしかに、すべての人においてすぐれていますが

自分の興味あることしか記憶できない。記憶できても意味を理解しているわけではない。本人が意識して覚えたいことを記憶しているわけではない。などの負の特徴もたくさんあるのです。

こんなこと描くとまた否定の意見書いてるように思うかもしれませんが・・・

私自身、 障害者と接する機会が多いので誤解を招かないためにこれだけは言いたいのです。障害により脳の使い方(認知や感覚)がちがうために、かれらはふつうとは違った才能をももっている。これはたしかです。

ですので、障害と才能はべつに考えるべきではなく

障害=才能 ・・・ちょっと違うかも知れませんが、セットで備わっているのだということを、理解してほしいと思うのです。

2011年8月25日 (木)

絵本と木の実美術館 ③

さて次はふたりの作家さんの絵画の紹介です。

★舛次崇さんの作品★

Masuzi1

兵庫県出身の作家さんです。

パンフレットにのっている「つのひつじ」が代表作みたいですけど、

むしろほかの何なのかよくわからないもの(失礼な言い方ですが)こそぐりむさんは見る価値があるように思うのです。

シルエット風に描かれた、日用品や花、オートバイなどの乗り物・・・

動きのようなものはないのに生き生きと描かれています。

Masuzi2

しかしあまりにも、つかわれている色が少なく寒色が主体の冷たい色づかいのように感じます。

作家さんは色のない世界を見つめている・・・?

わたしはそうは思いません。むしろ作家さんの見ている世界は色があふれているのだと思うのです。

「自閉症だったわたしへ」の作者であるドナ・ウイリアムスは色つきのガラス(サングラスのように)を通して見ると、バラバラに存在していたあらゆるものがひとつにつながり、意味のなかったものがひとつになって見えた。といっています。

視力の問題ではなく、脳の機能に障害がある場合、目にうつるたくさんの色の情報量が多すぎて処理できないという現象が起きるようです。

だからこそ作家は、すくない色をつかい自分の世界に没頭することが必要だったのではないでしょうか。

★村田清司さんの作品★

Murata01

ダウン症をかかえている村田さんは対照的に原色の鮮やかな色づかいの絵を描いています。

基本、自閉症や発達障害のひとは原色の色彩を好むようです。

それにしても特徴的なのは、規則正しく四角く描かれた顔がならぶところですね。

Murata02

ふたりの絵画に共通していえることは、

二次元的な構図であること。遠近感や立体感が感じられません。

脳の障害によって、空間や色彩の認知がうまくいかないことはよく知られています。

たとえば白い壁にかこまれた部屋があるとして、ふつうは壁の光の当たり方などで自分の横にある壁、奥にある壁などがわかりますが

色彩の認知がうまくできない場合、おなじ白い壁にしか見えないため空間の認識ができません。また、近くのものは大きく遠くのものは小さく見えるものも、

感覚や認知に障害があると大きさのちがうものがふたつあるようにしか見えず、そこから空間や距離をうまくはかることができません。

しかし、そのようなふつうの人とはまったく違う感覚世界に生きる人たちが見ている世界は決して不完全なものではないと思います。

むしろ、わたしたちがいかに「当たり前」に見えている世界がじつは違う視点からみると「当たり前」ではなく、ごく一部の角度からしか世界を見ていないのだと気づかされると思うのです。

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